Planet Fukushima
「 Planet Fukushima」作品概要
福島県伊達市霊山町は私の生まれ育った町です。宮城県との県境に位置するその町には今でも父母が暮らしています。伊達市は福島第一原子力発電所から北西に50キロほどのところに位置し、2011年の震災後、ホットスポットと呼ばれる高放射線量の地点がところどころ観測され、当時、実家からわずか数キロ離れたいくつかの地区では、立ち入り禁止区域にはなならないまでも多くの人々が自主避難を余儀なくされました。
当初私はこうした福島の写真を撮るつもりはありませんでした。それは報道写真家でもない自分にいったい何ができるのかという諦めと、そしてなにより自分の生まれ育った場所に(というか生まれ育った場所だからこそ)安易にカメラを向けたくない、という故郷に対するささやかな義理立てのようなものだったのだと思います。
しかしそんなある日、復旧して間もない阿武隈急行という在来線に乗って実家に戻っていたときのことです。外は雨が上がったばかりで濡れた緑が陽光に輝きながら車窓を流れていきます。私の目の前には長靴をはいたおじいさんが手すりにつかまって降車待ちをしていました。ツルツルの頭にわずかに残された白髪が、弱々しく光をたたえて扇風機の風に揺らいでいます。
その時不意に込み上げるものがありました。その白髪越しに流れる阿武隈の山並みを見て、今は亡き祖父の切り開いた山林が思い出されました。清々しい香りただようしんと静まり返ったあの杉林や竹林は、もう二度と元にもどることはないのだと思うと、胸が苦しくて仕方ありませんでした。
幸運にもというべきか、祖父は震災を経験することなく15年ほど前に亡くなりなした。はたして祖父はこの災害を想像したでしょうか? 我慢強い口数の少ない東北人としてこの小さな村に生まれ、そこで理不尽な境遇や不測の事故を経験することなく先祖代々受け継いだ土地をただ黙々と耕し人生を全うした祖父でした。戦後、大規模なエネルギー革命とともに町や村が近代化していき、おそらくガスや電気が村に普及したことを嬉しく感じたことでしょう。小児麻痺を患い片足が不便だったから、デコボコの山道に分け入る四輪駆動車を頼もしく思ったに違いありません。そしていよいよ成長した杉の木を切り出す時の軽快なチェーンソーの響きをどれほどの思いで聞いたことでしょう。
しかしその山はいま人が立ち入らなくなるとともに鬱蒼とした荒れ山となってしまいました。遠くから一見しただけでは何も変わらないけれど、山道は雑草に覆われ、木々には蔦が絡まり、害虫が大量発生し、熊や猪が縦横無尽に徘徊する。祖父だけではないいったい他の誰がこうなることを予想できたでしょう。もし祖父(やすでにこの世にはいないこの土地の人々)が、この目の前の山々や町の風景を見たらどう思うでしょうか? そしてそれは時を超えて自分が死んださらに後のことも考えないではいられません。
人物越しの写真が多いのは、こうした意味合いを含んでいます。
テーマおよびコンセプトについて
テーマについては、コンセプトである写真の構図について説明するのが分かりやすいので、そこから始めるようにします。もともとこの作品は「The Circle/ひとめぐり」を撮りはじめるのとほとんど同時期でした。だから構図としては非常にリンクするものがあります。動物園の作品の多くは檻やガラスの仕切りを隔て向こう側に動物の世界、こちら側に人間の世界の三つの構成(仕切りも入れて)で、一枚の写真にそれらが収まっています。この福島の場合は向こうに風景があり、こちら側に人間がいる。そこで動物園でのガラスや柵に匹敵するのが、目に見えない放射能ということになります。一枚の写真のなかには三つの違う次元が存在している。かつては同じ空間にすべて一緒に存在していた風景も人間も、あの事故をきっかけに今では目には見えない異物によって遮られている。そしてその異物はこの先もずっと私たちの前に居座りつづける。これがテーマになります。
2011年の震災以降、生まれ故郷である福島を撮りつづけてきました。
震災から5年の月日が経つ今年になってようやく、自分が福島を撮る意味を見出したように思います。
現在も福島と東京を往復しながら撮影をつづけている最中です。
ここにある写真は今年一月までのものになります。