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                     Planet Fukushima

 

                   

 福島第一原子力発電所の事故で放射能物質が飛散し、福島の各所に『ホットスポット』と呼ばれる空間放射線量が非常に高い地点ができました。放射性物質を帯びた雲『プルーム』が天候の影響で発電所の北西方向(内陸部)に流れ、その雲が雨を降らせたことが原因です。その被害は広範囲に及び、私の実家のある伊達市も (福島第一原子力発電所から北西に約60kmの距離)も例外ではありません。実家からわずか数キロ離れたいくつかの地区では、立ち入り禁止区域にはなならないまでも多くの人々が自主避難を余儀なくされました。この作品のほとんどはプルームの通り道で撮影されたものです。

 

 可視化できないという放射能の物質的特性のせいで、私は当初事態の深刻さをなかなか把握することができませんでした。そんなある日、復旧して間もない在来線で帰省していた時のことです。外は雨が上がったばかりで、心地よい電車の振動と共に濡れた新緑が車窓を流れていきます。その手前では長靴をはいた老人が手すりにつかまって降車待ちをしていました。禿げ頭にわずかに残された白髪が扇風機の風に揺らいでいます。その時不意にこみ上げるものがあり、それは今は亡き祖父の姿と祖父が切開いた山林が眼の前の風景に重なったのでした。あの山が二度と元にもどることはないのだと思うと、胸が苦しくて仕方がありませんでした。それはまた大きな喪失感とともに、いまだかつて感じたことのない極度の恐怖感とが同時に押し寄せた瞬間でもありました。その視覚体験は外界と分断された決して扉の開かない未来の電車を暗喩しているようにも思え、見慣れた景色がひどく違ったものに見えたことを今でもよく憶えています。
 それ以来、私の視界には近景、中景、遠景という三つの層が形成されるようになりました。それは三つの違う次元といっていいかもしれません。たとえば近景に人間がいて遠景に風景、かつてそれらは同じ空間に一緒くたに存在していたはずなのに、あの事故をきっかけに今では放射能という異物によって遮られてしまっている。そしてその目に見えない中景はこの先もずっと私たちと風景の間に居座りつづけるのです。
 幸運にもというべきか、祖父は震災を経験することなく20年ほど前に亡くなりました。はたしてこの災害を祖父は想像できたでしょうか? 我慢強い口数の少ない東北人として先祖代々受け継いだ土地をただただ黙々と耕し人生を全うした祖父でした。戦後、大規模なエネルギー革命とともに町が近代化していき、おそらく祖父はガスや電気が村に普及したことを嬉しく感じたことでしょう。小児麻痺を患い片足が不自由だったから、デコボコの山道に分け入る四輪駆動車を頼もしく思ったに違いありません。そしていよいよ大きく成長した木々を切り出す時の軽快なチェーンソーの響きをどれほどの思いで聞いたことでしょう。しかしその山はいま人が立ち入らなくなるとともに鬱蒼とした荒れ山となってしまいました。遠くから一見しただけでは何も変わらないけれど、木々には蔦が絡まり、害虫が大量発生し、熊や猪がこれまでの境界を越えて里まで下りてくる。祖父だけではないいったい他の誰がこうなることを予想できたでしょう。もし祖父や、すでにこの世にはいない土地の人々が、目の前の山々や町の景色を見たらどう思うでしょうか? そしてそれはさらに時を超えて自分が死んだ後の人々のことも考えないではいられません。
 そんな分断された空間を意識するかたわら、7年の歳月を経て最近あらたに気づいたことは、それは人によって時間の感覚が違うということでした。速かったり遅かったり、長かったり短かったり、切れ切れだったり、あるいは一挙に溯行して震災以前に戻っていたり。つまり時間の流れが違うということは、あの震災の意味も人それぞれだということです。農家の人々、復興産業に携わる人々、仮設住宅に暮らす人々、子供たち、そしてその子供の親たち、また被害が可視化できる沿岸部と放射能の被害が大きい内陸部というように、その被害の種類や規模によっても人々の時間の感覚は異なるでしょう。むろんそれは福島以外のどの地域の人々にとっても時の概念、そして震災に対する思いは個々に違うのは当然のことです。でも現在の福島という空間において、その目に見えない異物の存在が人々の時に対する感覚に一種独特な影響を与えている気がしてなりません。
 中景という異物に分断された遠景と近景、そしてその一切合切をふくんだ福島といういう空間がいま以って世界の一部として存在しつづけるための一刻一刻の累積である時間。そんなことを意識しながら写真を撮っていたら、急に俯瞰で福島を見たくなり、さらにもっともっと遠くから青い地球を見たくなりました。

 2017年12月 Nikon Salon 伊奈信男賞受賞写真展 『Planet Fukushima]』 挨拶文より   

補足)「Planet Fukushima」においては、一枚の写真の中で(近景の人間)、(中景の放射能)、(遠景の風景)という三つの存在を、それぞれ別の層(例えばPhotoshopのレイヤーのように)としてとらえています。それに対し「The Circle」は、(近景の人間)(中景の檻や柵)、(遠景の動物)ということになり、ある意味でこれら二つの作品は、対をなす作品だということができます。

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